堂園メディカルハウス

三代目:堂園 晴彦

 

慈恵医科大学ラグビー部 時代

慈恵医科大学ラグビー部 時代

壮意と泰子にもまた3人のこどもがいました。長女は優秀でなんでも一番。鶴丸高校から慶応大学医学部にストレート入学。

次女は自由奔放できれいなものが大好き。中学から東京に出てジュエリーデザイナーになりました。

長男であり末っ子でもある晴彦は、親の大きな期待もありながら、初の男児としてそれは大事に大事に育てられました。

鹿児島大学附属幼稚園、附属中学校、鶴丸高校、2年間の浪人を経て慈恵医科大学に入学します。

在学中はヨット部・ラグビー部の活動に勉学そっちのけで熱中しました。

医学生時代〜レジデントからのスタート

国立がんセンター時代の晴彦(中央)

無事国家試験に合格し慈恵医科大学の産婦人科医になると、人が変わったように医学に邁進しました。

自ら申し出て月の半分以上はお産の当直をし、技術を磨きました。医局では大川先生との出会いがありました。その大川先生が北海道に赴任し研究室がなくなるが、癌の研究をもっとしたいと思い、がんセンターレジデントに応募しました。

がんセンターでは、3年間日曜を除いてすべて泊まり込み、あらゆる科で最新の医学トレーニングを受けました。

レジデントの後は、1年間静岡県清水の社会保険中央病院産婦人科に勤めたのち、慈恵医科大学本院に産婦人科講師として戻ります。

堂園産婦人科を開院

開院当時の堂園産婦人科

開院当時の堂園産婦人科

36歳の時鹿児島に戻り、鹿児島大学産婦人科医局に入局しました。1991年には、父壮意が病に倒れた為、堂園産婦人科を継ぎました。とはいえ、当時の堂園産婦人科の建物も老朽が進んでいたため、物置として使われていた中古ビルの1階を改装して「診療所」とは名ばかりの畳6畳の小さな場所からスタートしました。

鹿児島大学病院で手術や放射線などの治療をしたがんの患者さんが再発すると、この小さな診療所を訪れ、外来で点滴などの治療を受けていました。そのうち癌が進行し外来の治療を受けられなくなると、患者さんの希望を受けて癌の在宅訪問治療を開始しました。

当時は介護保険制度も整っておらず、また在宅訪問治療もとても珍しい時代でした。

医師1名、看護師3名の限られたスタッフでしたが、午前と午後の診察の間に往診に出かけ夜間も患者さんからの連絡があればすぐに患者さんのご自宅に駆けつけました。在宅で看取った患者さんのお通夜の席でご家族から、「先生、是非入院施設を作って下さい」との声をかけられ、それがきっかけとなり、ホスピス建設の構想が具体的になり始めました。

堂園メディカルハウス開院

堂園メディカルハウスのスタッフと

堂園メディカルハウスのスタッフと

ホスピス機能を持つ「堂園メディカルハウス」が完成する1年前の1995年、父壮意が逝去。吉野の幼稚園・保育園の理事長を引き継ぎます。翌年11月3日文化の日に19床のホスピス診療所「堂園メディカルハウス」が竣工しました。

手のぬくもりとおもてなしのシャワーを合言葉に、もう一度いきたくなる・そこで死にたい病院を目指しました。

「どこでもドア」ならぬ「どこでもケア」を掲げ、入院・在宅・通院すべてにおいて患者さんが望む医療を提供できるようにとの熱い思いがありました。有床診療所でのホスピスは日本初の試みでしたので「3年で潰れる」との批判も多くありました。

その批判に負けぬためそしてなにより患者さんの為、「医師は24時間365日患者さんの為に生きなくてはならない」を口癖にシャカリキに取り組むさなか、過労から大鬱病を発症…( ノД`)シクシク… 一変して「死にたい」が口癖の暗黒時代となりました。

以後3年鬱病に苦しみましたが、2005年11月10日、「脳の中に光が差している」との言葉をきっかけに快復。

患者さんとの出会いに感謝しながら治療に取り組み、外来・入院・在宅を同一スタッフでするコンビネーション緩和ケアシステムにより、年間100名前後の癌患者さんを看取り、在宅死率約25%を実現しました。

病気も社会も治す〜外来と在宅へのシフト

インド コルカタでのボランティア研修

インド コルカタでのボランティア研修

その後10年の間に、鹿児島にも緩和ケア病棟がたくさんできました。ホスピス・緩和ケアのパイオニアとして医療をけん引したいという強い思いで走り続けてきましたが、地域医療を取り巻く制度の移り変わりもあり、2015年12月に入院を辞め、外来と在宅を中心とした医療に切り替えました。図らずも、30年前に診療所を始めたばかりの頃の、原点に戻る形となりました。

ホスピス医療のイメージが強い堂園メディカルハウスではありますが、診療所開設当初より一貫してステロイドを使わないアトピー治療や、慢性疲労の方の治療などにも力を入れています。

一方、晴彦は医療他の活動にも熱心に取り組みました。鹿児島大学の平川先生に「病気も治すけど、社会も治すお医者さんだね」と言われたこともあります。困っている人を見ていると放っておけない、正義感にあふれる人でもあります。

ある時、診療所に「15歳の少年と16歳の娘の間にこどもができた。分かった時にはすでに妊娠8か月だが地元の病院では中絶してくれない。市内だったら中絶してくれると思った。助けてください。」と訴える女性が訪れます。

その後、様々な手続きをへて赤ちゃんは特別養子縁組で養親に託されることになりました。

この1件をきっかけに、望まない妊娠をした方とこどもを授からないご夫婦との橋渡しをする活動を行い、約40件ほどの特別養子縁組が結ばれました。

2001年には「病ではなく、病を持つ人を診ることができる医療人を育てる」ことを目指してNPO法人風に立つライオンを立ち上げました。

医学生をインド・コルカタのマザーテレサの施設「死を待つ人の家」に派遣し、最新の医療機器はないけれども寄り添う医療とはどういうものかを考える研修を行ってきました。

この研修で訪れたハンセン病の方が暮らす村「ニヒルマダイ」を訪れた時に、後のNAGAYA TOWER建設のきっかけとなる閃きを得ます。

NAGAYA TOWERプロジェクト

構想を練ること数年。老若男女が場を共有する共同体、場の創出を目指し、NAGAYA TOWERプロジェクトが始まりました。

国土交通省より高齢者等居住安定化推進事業の助成を得て平成23年4月「微笑みを交わす人がいれば人生は幸せ」をスローガンにしたちょっと変わった賃貸住宅NAGAYA TOWERが開設しました。

 

心身一如を胸に

2016年からは外来中心に診療をしています。

現在行っている治療は

1)進行癌患者への積極的な緩和治療(ゲルマニウムによる免疫療法・高濃度ビタミンC治療)

2)アトピー性皮膚炎に対するビタミン・漢方・食事指導などのステロイドを使わない治療

3)心身症に対するビタミン・漢方・カウンセリング

4)その他種々の治療相談

治療内容は可能な限り患者本人の持つ自然治癒力を高めることを目的とし、食事指導を中心とし、化学的薬物を可能な限り使わないようにしています。そして、日々患者さんと相談し、お互いが納得できる医療を実現する挑戦は今日も続きます。